祖母が亡くなった
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祖母が亡くなった。
大正に生まれ、平成まで風のようにふわりとそしてさらりと生きたと言う表現がぴったりの99歳だった。
大正6年、1917年生まれ。
第一次世界大戦が1918年に終戦しているので祖母は1歳。
日本が戦争へ向かっている時、満洲国が建国された年に多感な時期を迎えている。
どんな思いだったのだろうか。
まさに激動の時代を生きた。
1927年(祖母10歳)関東大震災。
「すごく揺れたよ」と話していた。
戦争の話も聞いた。
世田谷で生後間もない、幼い母をおんぶし、3~4歳の叔父の手を引いて、
戦前、戦中を経験している人は戦闘機の名前を知っているんだなと思わされた逸話。
ここ最近の入院中も食べるのも嫌だと言い始め、いつも眠いよと言いながらも、
その話を向けると、そうだそうだと、話し始めた。
新しいことはなかなか話せなくなっていたが、昔の記憶はしっかりしていた。
ここ2~3年は床に伏せることも多く、新年の挨拶も体調を見て、ここ2年できていなかった。
叔父とともに生活しており、叔父が中心になって、介護をしていた。
母も毎週のように介護へ行っていた。
年を明けると入院することも増え、
この夏前には叔父や母からは「そろそろ・・・」と言われていた。
そんな話を聞き、2年ぶりに会ったのが6月の終わり、7月の始まりだっただろうか。
梅雨も明けていなかったが、暑い日だった。
病院に着いてから、教えられた部屋番号に行き、
祖母の姿を探すと、ベッドに見慣れない老婆が寝ていた。
しかし、名札には祖母の名前があった。
祖母は信じたくないほど、認めたくないほど、痩せ、小さくなっていた。
ベッドに近寄ったが、寝ているのか起きているのかわからない。
私の気配を感じているようでもなかった。
向こう側を向いていたが、声をかけてこちらを向かせるのもためらわれるほどの状態だった。
私は一呼吸したく、「寝ているからもう少し後で」と言い訳して、
「歓談スペース」のようなところを見つけて座った。
正直な思いとしては怖くなり、逃げただけだった。
認めたくなかった。受け入れられなかった。
あの元気だった祖母があんなに小さくなって今にも死んでしまいそうな状態であることを。
私の知っている祖母ではないと。
程なくして、母が到着したが「寝ているよ」と言い、またしても逃げた。
母とともにベッドに行くと理学療法士らしき人がマッサージを行っていた。
挨拶をすると、ちょうど、マッサージが終わったとのことで、
その後、昼食でもあったので入れ替えに、母が声をかけた。
祖母は声をかけるまで我々が来たことに気づいていなかったようだ。
そこまで衰えたのかと辛かった。
母が「来たよ。」と声をかけても、祖母は朦朧とした感じでうっすらと目を開けるだけだった。
「わかる?」と声をかけると「ううん、ううん。」と頷いていた。
「ほら、今日はおおよそも来たよ。わかるかな?」と声をかけると、ぼんやりとしているだけだった。
私は目線の中に入るように努めて笑顔で「おおよそだよ」と言うと、
祖母はほんの少しだけ目が開いて、私を確認したようで、
「ああ、なんだか懐かしい顔だね」
と言い、ほんの少し、ほんの少しだけ微笑んだ。
2年ぶりだ。
そして、1時間ほど経って、食事の時間が終わった頃、母が、
「じゃあね、また来るね。」と言うと「うん、うん、わかった」と言うように頷いていた。
目は閉じていた。
この時、私はこれが最後になるのかもしれないと思い、近寄って祖母の手を握った。
暖かった。信じられなかった。こんなに小さくなって、衰えても、人の手は暖かいのだ。
驚きを隠しながら、「じゃあね、また来るね。ぎゅっ」と言い、握った手に少し力を入れた。
すると、祖母は確かに、明らかに握り返してきた。ニヤリと微笑み「うんうん」と言った。
ホッとした。
これが祖母との最後の会話だ。
食べたくないと言い、飲み物ばかりを飲み、体を動かすのも辛そうだった。
とにかく眠い、眠いと答えていた。
その時点で「無理はさせたくない」「辛くさせたくない」と思った。
食べたいものだけ食べればいいと思った。
母は頑張って食べてと言っていたが、口に入れるだけでも辛そうな祖母を見ていると、
「やめて」と言いたくなったのをやっとの思いで飲み込む。
母の「もう少し」と言う思いもある。
その後、退院したが「自宅に帰りたい」と言ったからだと聞き、その方がいいと思った。
しかし、叔父夫婦だけでは介護もできない、治療もできないので訪問看護ステーションを持っている医療機関とともに介護と訪問治療を行うこととし、在宅で最期を看取るという方針にした。
すでに肺炎を患っていた上での方針だった。
今週に入り、肺炎がひどくなり、食べないどころか飲みたくないとまで言うようになり、
急遽訪問診察をしてもらったがやはりもうこれ以上は無理だと伝えられ、在宅で看取るか、
入院して看取るかの選択になった。
叔父の判断で救急車を呼び、入院となったのが火曜日の夜。
19時半に母を車に乗せ、病院へ向かった。
暗くなった病院の入り口から入った私たちは救急外来に向かおうとしたが、
受付横の守衛室から声をかけられ呼び止められた。
もどかしかったが、私たちに瑕疵があるのは自明だったので、説明すると、
事情を知っているのか、守衛さんは救急外来への行き方を説明してくださった。
早足に向かうと、暗くなっているはずの病院だったが救急外来の前だけは明るかった。
廊下にはその明かりに照らされるように初老の男性が座っていた。
すぐにわかった。叔父だった。
叔父とも会うのは久しぶりだった。
3月の父の法事以来だったかと思う。
私はその叔父の姿にも驚いた。
3月に会った時も「老けたな」と思ったが、より「小さく」なっていた。
老人になっていた。75歳なので老人ではあるが。
医師が処置室から出てきて、説明をしてくれたがやはり体力的にこれ以上の処置は難しい。
なんとか血管に点滴の針を入れることができたが、次入れることはできない。
血管も見えなくなっているほど衰えているということだと思う。
「老衰」
レントゲンを撮ったがかなり肺炎が重い状態であること。
痛みを訴えているが痛み止めを使えば、その作用とともに血圧を下げるのでそのまま亡くなる可能性が高いと言う。
叔父は「痛み止めの必要ありません」とだけ言った。
ここまではっきりとした表現で書いたが、
医師は極めて、慎重に言葉を選び、家族にわかりやすく説明をしていたと思う。
20年前、父を亡くした時は雲泥の差だと思った。
父の時はまさか入院して次の朝に亡くなるとは思ってもみなかったし、
それまで治療などの説明を受けた記憶もない。
患者の同意などというものは存在せず、「治す」「治してください」の関係だったと思う。
医療もここまで変わったかと思った。
時折、何かの処置のためにスタッフが体を動かすのか、
その都度、「痛いよ、痛いよ」と言う声が廊下に響いてきた。
祖母はあの時、処置室で何を感じ、思っていたのか。
私はこれ以上長生きして欲しいとは思えなかったし、
死んで欲しいとも思えなかった。
楽にして欲しいと思うだけだった。
私も辛いから。何よりも自分が辛いから。
処置室から出てきた祖母は酸素マスクをつけていた。
そのマスク越しの呼吸は辛そうで、母が声をかけても返事はなかったと思う。
透明なマスクに祖母の荒い呼吸が当たりクモリを作っていたのを鮮明に覚えている。
ああ、そんなに辛いんだなと思った。苦しいんだなって思った。
21時過ぎ、入室し、スタッフから帰宅を促されると同時に、
明日は何時頃くるかと尋ねられ、叔父は昼までにくるよと言った。
私は付き添いはないのかと、呆気にとられた思いだったが、
今すぐどうこうという状態ではないのだろうと言い聞かせ、
母と救急車に乗ってきた叔父を乗せ、帰途へ着いた。
帰り道、祖母の話もしたが、病院からの裏道の話をした。
「いつも通っていたからね、いろいろと試して、いろんな道を知っているよ」と叔父は話していた。
そっか、祖母が心臓を患ったのが9年前の90歳の時。
その時に初めてこの病院に来て、ペースメーカーを入れたんだ。
それ以来、ずうっと叔父は病院に祖母を連れてきていたから道に詳しいのか。
祖母の歴史は叔父の歴史でもあるんだなと思う。
結婚しても同居していたのでまさにその通りなのだと。
暗い道を走り、家の前の通りで降ろした。
時間は22時を回っていた。
そのまま、母も送り、帰宅した。
次の日の水曜日も病院に行くとのことだったので、
私も時間を作れたので午前中に迎えに行き、病院へ行った。
11時前に到着し、病室を覗くと、祖母は酸素マスクを外されていて、
鼻から酸素を送られていた。
口元を見ると、「黒いカス」が口の周りについていた。
血液だとすぐにわかったがなぜついていたのかわからなかった。
後に聞いたが、自分で酸素マスクを外してしまったから、鼻からに酸素を送っているようになっていたことを聞いた。その時に血が出てしまったのだろうか。
祖母に母が声をかけると、薄く目を開け、「ううん。」と言う感じで返事をしていた。
私も覗き込んで「おおよそだよ」と声をかけ、指を握ると、さらに目が見開き、
「ああ。」と言った。理解しているようだった。
その指は冷たかった。前回とは違った。暖かくなかった。
不安になった。
それでも、なんとなく、前日に比べて落ち着いたのかなと思った。
あの時のように荒い呼吸はしていなかったし、苦悶の表情ではなかった。
午前はスタッフによっていろいろと清拭やらあったようなので、
歓談スペースに行き、持ってきたパンなどを食べながら、
祖母の最近の様子などを改めて母が話しているのを聞いていた。
配膳車が往き来しているのを見て、昼食かなと言いながら病室に戻ると、
祖母には昼食がなかった。
本人が断ったのか、医師の判断かはわからなかったが、
祖母が食べたいという状態ではないことは私にもわかる。
そばで母が「食事は出ないんだねぇ」とポツリと呟いていたのがとても辛かった。
そんな話をしていると、不意に祖母が「痛いよ」と顔をしかめたので、
どうしたの?と母が布団をめくると、あれ?濡れてると。
ナースステーションに行き状況を伝えると、点滴を外してしまっていて、
その点滴がそのまま漏れてしまい、濡れていたのだった。
そのまま、スタッフによって処置が行われたので、私たちは廊下で待った。
手からの点滴ではなく、皮下によるお腹からの点滴に変えましたと伝えられた。
12時半を過ぎたが、伯父と母の弟である叔父も仙台から駆けつけ、
もうすぐ到着するはずだったが、なかなか来ない。
祖母の状態も、寝ているだけといった感じで点滴も打っているし、
何よりも昨晩のように辛そうにして、呼吸も荒いとかそういう様子もなかった。
私は昨日からの疲れが残っていたので、少し早めに帰ることにし、
叔父と会えるかなと思っていたが、少しはこっちにいるだろうから、
夜か明日でもいいかと思い、帰ることにした。
帰る前にちらりと祖母を見たが仰向けになって、口を開けて呼吸をしている様子だった。
そのまま寝ている。いや、今思えば、意識が薄い状態だった。
あの時は寝ていると思いたかったのだと思う。
それが生きている、祖母を見た最後の姿だった。
夕方16時過ぎに、母に電話したところ、すでに帰宅し、明日も病院に行くと話していた。
私はその電話でちょっと用事があるので実家に行くと話し、夜、19時過ぎに行くと話した。
19時45分ごろ、実家について鍵を開けて玄関に入ったが、
玄関もリビングも電気は点いているものの、呼んでも返事がない。
うーん、疲れて寝ているかなと思い、少し面倒だなぁと思いながら、インターホンを鳴らした。
すると、リンビングの扉が開き、母が出てきた音がした。
母は廊下を歩きながら「それがさぁ・・・」と言いながら現れた。
「おばあちゃんが今亡くなったんだって」と不意に行った。
そう、不意と感じた。
母の表情は今思い返しても無表情に近かったと思う。
私は「え?」と言うので精一杯だった。
なんだか、明日も「あの状態」で生きているんだろうなと思っていたから。
ちょっと。
死んだの?もう?
でも、もう限界だったよね。
え?
死んだの?
なんだかずっと独り言のように心の中でつぶやきながら、母を見た。
「さっき兄から電話が来て、突然病院から電話が来て、今、亡くなりましたって言われたって。」
「それで、今、(叔父)二人で向かっているけれど、すぐに葬儀場とか手配するから、その葬儀場の人がむかえに来るか、来ないか、まだわからないし、まだ来なくてもいいよって。」
え?こういう時、すぐに駆けつけるもんじゃないの?父の時はそうだったじゃんと思ったが、
なぜか「それもそうか」と思った。
もう死んじゃったしって。何もできないよねって。
母は待つしかないねとしか言わなかった。
そして、じゃあ、伯父さんから連絡あったら、連絡してねと言って私は用事を済ませてから帰途に着いた。
私はここで最大のミスをしたと今思っている。
21時ごろ、食事をしていたら妹から電話が来て、祖母のこと聞いたと。
しかし、母が心配だと。
一人で抱え込んでしまう性格だからと。
確かにそうだ。
実家に泊まりに行けない?
もしくはそっちに泊めさせてあげられない?
など提案を受けつつ、私は今まで言葉にしなかったことを言った。
本当は病院に行って、兄弟3人で過ごしたほうがいいと。
妹は「ああ。それね。夫もそう言っている。」と。
腹は決めた。
「今、お袋に電話して、病院に連れて行くよ」と一方的に妹に伝え、電話を切った。
すぐに着替え、電話をし、母に「今すぐ病院に行くから準備して」と伝えたところ、
母は「そうかね・・・じゃあ、わかった」と言った。
21時55分に実家に着いて玄関を開けると、
先ほどは家着だった母は着替え終えていたが、携帯電話で誰かと話していた。
伯母からだった。伯父から連絡があった内容を母に伝えてきたようだった。
電話を終えると、22時40分に葬儀場の人がむかえに来る。
病院は一晩も置いておけない。
今から病院に向かうと入れ違いになると思うと。
母は「どうするかね・・・」と言う。
私はイラっとした。たぶん私自身にイラっとしていたのだと思う。
この決断の遅さに。こんな時間になってしまったことに。
「いいよ、行こう。」と冷たく促した。
私の計算ではこの時間なら20分あれば着くと思っていた。
車の中で叔父の携帯電話に電話したところ、やはり入れ違いになるのではないかと言われている。
「ああ、どうしよう。おおよそ、電話変われない?」と言ってきたが、車を停めるつもりもないし、
電話に出ても「行きます」というほか言うことないので、「いや無理」とだけ答えた。
続けて、「とにかく行くから、それで入れ違いになったら葬儀場に行くからと伝えて」と言った。
母は叔父にそのまま伝え、とりあえず、また考えて電話すると言っていた。
私には確信があった。絶対に間に合うと。
すると、やはり確信通り、病院最寄りの交差点を曲がった時は22時20分だった。
「もう着くから、叔父さんに電話して」というと、
母は驚いた様子で「え?もうそんなところなの?」と言った。
「そうだよ、ほら電話」と促す。
つながる。
どうやら、まだ葬儀会社は来ていないとのことだった。
「もう着くのよ、あ、もう玄関前」と言っている。
正面玄関に車を流し込む。
一台、軽のバンが停まっていた。
その後ろに停め、母を降ろす。同時に電話を切っていた。
降りる母を見て、私は一番近い駐車場に停め車を降りた。
早足で玄関に向かう。
すると先ほどの軽のバンのそばに車椅子に乗った老人の男性と介護のためらしき人がいた。
車椅子の老人は何か「~!~!」と力なく叫んでいるように聞こえた。
何を言っているかまではわからなかった。
その人達を後にして、病院内を進もうとしたところで、
守衛さんに呼び止められる。
「あの、~の・・・」と、
祖母の名前だけしか入っていない段階で、
すぐに「あ、家族の方ね、どうぞ」と言われた。
病棟から話が来ているのか、先ほど母が通ったからなのか。
薄暗くなった病院内を歩き、エレベーターに乗り、4階のボタンを押す。
降りてすぐに、ナースステーションをパスして、祖母がいた部屋に向かう。
いない。
ベッドには祖母はいなかった。
ネームプレートを見ると名前がなかった。
すると、後ろから声をかけられた、「あのう・・・」と。
振り返ると、薄暗い廊下に紺色のユニフォームを着た男性が立っていた。
メガネをかけているその男性は看護師なのだろうか、看護助手なのだろうかと思いつつも、
男性は「~さんの(家族)・・・」と言ったので、「そうです」と言うと、「あ!こちらです」と小声で答え、
静かに、そして速く歩き始めたのでその後ろにつく。
なんだか慣れている感じだなと冷静に思った。
老人が多い病棟だからかなとさえ思った。
「こちらです」と指差し、「~が既に来られており」と聞き取れない内容だったが、家族しかいないだろうと思い、「ああ、はい」と、適当に返事をし、男性スタッフが扉を開けると中から光が漏れてきて、
人が話す声が聞こえてきた。
男性スタッフにお礼を言い、入室すると驚いたことに「一人部屋」なのだが、
パソコンなどの機器でいっぱいの部屋だった。何に使うのかわからなかった。
事務作業用のものではないかと思った。なんでこの部屋?と言うのが最初の感想だった。
しかし、入ってすぐ左を見るとベッドがあり、3人が囲んでいた。
そして、ベッドにはお昼に別れた時と同じ姿の祖母がいた。
仰向けに寝て、天井を見上げ、口を開けた状態だった。
昼間と変わらない姿だった。
違いといえば、呼吸をしていないことぐらいだった。
当たり前だが。
すぐに目があったのはベッドに向かって左手にいた仙台から来ていた、叔父だった。
「あ、どうも」とお互い挨拶をした。
叔父の右手には白い布があった。
右手には母がいた。鼻をすすっていたが既に泣きお終わった様子だった。
手前には母の兄である、伯父がいた。
何から話したんだろう。
昨日のことなのに、全然覚えていない。
「ああ」と言ったのか。
「ああ、うん」と言ったのか。
清拭をしてもらって、少し薄化粧をしていると伯父から聞いた。
口の中に脱脂綿が入っていた。
それ以外は何も変わらないと感じた。
「肩を叩いたら起きそう」と母が言っていた。
そんなドラマみたいな台詞っていつも思っている方なのだが、
今回は確かにそうだと思った。
母は肩をたたく。「ねえ、おばあちゃん」と。
うん、起きそうかも。
ただ、顔色が悪いから、これは起きないだろうなって思った。
すると、仙台から来ている叔父が「すごいな、耳」と言った。
「こんな形になるんだ。人間の耳って」と指差す。
なんだか「ひょうきんな人だな」って思った。
不謹慎だなとは全く思わなかった。
確かに、大きく窪んでいて、福耳と言われている祖母の耳は不思議な形をしていた。
皆は福耳だからじゃないと言っていたが、「いやいや、そうじゃなくて」と話し込んだ。
どうでもいいかなとも思った。
涙は出てこなかった。
やっと楽になれたかなとか、100歳まで生きられたらどうだったかなとか、
ただ、あの状態で100歳というのは辛いなとか、
寝込んでいない状態で100歳ならいいなとか、そんなことを考えていた。
伯父が、「まぁ苦しんだわけでもないようだし」と言った。
しかし、どうやって一人で寝ていた祖母が心臓が止まったとか、
呼吸が止まったとかわかったのかなという話題になった。
どうも伯父が言うには、
「いや(ナースステーションには)すぐわかるようになっているから」と言うが、
その一点張りで理屈が全然説明されない。
昔、父が亡くなる寸前の頃、ベッドで、
人差し指の先にクリップみたいなのを挟んで
(静脈を見て?)モニターに出しているのを見た記憶があるが、
あれも付いていなかった。なぜわかるのかと。
ベッドも完全に機械化されていて、ボタンひとつで寝たまま体重が測れるようだった。
そのベッドから、無線か何かが飛んでいるのか?とか考えたが、
伯父の理屈のない説明の「すぐわかるようになっている」と言うことを繰り返しをただ聞いていた。
伯父もだいぶ老けたなと改めて思う。
結構話が一方通行な時がある。今回もそうだった。
そんな時、少しの沈黙の後、母が「あのね、5月にお見舞いに来た時に(妹の子供=私にとっての甥っ子)がね、ばあばのばあばが体が悪くて入院しているのって話したら、折り鶴を折っていたんですって。で、今日も亡くなったって電話したら、さっき折っていたって(妹が)言っていてね。それ聞いてほんとにね・・・」と泣き始めた。
「折る時も何も見ずに折っていたんですって」と続けて言い、泣いていた。
「もうそんな年なのかねぇ。わかるのかねぇ。」と。
思いがけないことを聞いた。
そして、泣いた。
ぽたり、ぽたりと涙が出てきた。
5歳の甥っ子が折り紙をただ、ただ、よくなりますようにと追っている姿を想像したら、
涙が溢れてきた。
その純粋さに涙が出た。
純粋さはこんなに苦しいものなのかと思った。
祖母と甥っ子は何度あったのだろう。
曾孫と曾ばあちゃん。
その関係を理解しているのかどうかとさえ思っていたが、
ばあばにとって大切な人ということは理解しているのだと思った。
ばあばにとって大切な人は自分にとっても大切な人と理解している。
私が初めて家族の死、ひいては人の死に触れたのはおそらく6歳か7歳の頃だと思う。
父方の祖父が亡くなった時だ。
実感がなかったな。
あ、人が死んでいるってこういうことかって。
当時は自宅で葬儀をしたので、一緒の屋根で死人と寝るのが怖かったかもしれない。
そんな記憶しかない。
それでも人は死ぬということを知った気がする。
なぜ死ぬのか、何か病気があったのかということは当時わからなかったけれど、
目の前に横たわっている「物」は死体だということは認識した。
甥っ子が祖母ではないが、初めて人の死について触れる。
妹から聞かされて触れているだろう。
折り鶴を折るのを止めたのか、それとも折り続けているのか。
そんな話を聞いて、涙を拭いていた頃になって、時計を見ると22時50分になっていた。
まだ葬儀場の人は迎えに来ないんだね。
24時間の仕事なんだねとか話していた。
22時55分ごろ、到着したとスタッフから紹介された。
黒いスーツと黒いネクタイをした40代ぐらいの男性と60代かと思われる男性が深々とお辞儀をして挨拶をした。
別室でお待ちくださいと促され、待っている間に、
ベッドを移し、専用の通路で病院の裏手に出た。
ああ、父の時もそうだったな。外来とか通らない道があるんだよなって母と話した。
患者さんを不安にさせるからとか、そんな話をした。
外に出ると、むわっとした湿気が顔にまとわりついてきた。
雨が降ったのか、地面が濡れていた。
そこには黒いワンボックスが停まっており、黒いスーツを着た男性がバックドアを開くと、
がしゃんと救急車に乗せるように足がたたまれて、遺体を乗せた。
バタンとバックドアが閉まる。
その後、伯父が今後の日程は・・・と話し始めたので、
離れたところで叔父と話したが、
「兄貴、運転大丈夫かな。もう危ないな。早めに免許取り上げちゃったほうがいいんじゃないの?」とか、「横に乗っていると、こえーよ」とか無邪気に話しているように感じた。
なんだか肝が座っているというか、マイペースというか。
振り返ると、女性のスタッフが「お見送り」のため立っていた。
まぁ、仕事だし仕方ないかと思っていたところ、病院から、別のスタッフが飛び出てきて、
少し驚いたが、その手元を見てすぐに理解した。
封筒を持っていたのだ。
「死亡診断書」を忘れたのだとわかった。
慌てて、伯父に手渡しに行っていた。
まぁ、あれがないと全て始まらないなと、苦笑い。
女性スタッフは一人になってしまい、申し訳なさそうに立っていた。
叔父は「あ、もういいですよ」なんて言っているが、「いえ。」という女性スタッフ。
私は心の中でいやいや、仕事だしって一人でツッコミを入れていた。
ふと、車を見るとナンバーが「44-44」だった。
うわ、驚いた。
そこまでするのかと。
いやいや、仕事とはいえ、やりすぎかなとか思った。
周囲で私たちは4(し)は死の意味もあるが、幸せの4(し)でもあるとかなんとかと話していた。
ほんとなんだろ。死の4しか思いつかないが。
そういうの気にする世代はいつまでだろう。
少なくとも私は気にしない。
必要ない。
マンションとかも別に404号室でもいいし。
ホテルも4号室でもいいし。
駐車場も94でもいい。
話は後でということになり、とりあえず葬儀場へということで、
伯父が先導、その次に祖母を乗せた車に母と叔父が乗り、私が後を追うことにした。
葬儀場はああ、ここかというところだったが、こんなところにあったんだというところだった。
道をよく見ていると葬儀場っていっぱいある。
結局、日程は夜も遅いので火葬場の段取りもつかないということで明日までに決めるということになった。
その間、祖母は安置所に移され、火葬場の冷蔵庫版みたいなところに半分入れられており、
顔だけ出していた。
移動して、お線香をと促され、各自お線香をあげると、
今度は綿棒の大きなやつで、水をつけて、口元につけてあげてくださいと言われる。
なんだこれは?と思いながら、とりあえず、言われるがままに動く我々。
水に浸し、大きな綿棒で口元につけてあげたが、水をつけすぎたのか、祖母の口元に「水玉」ができてしまった。
ああ、このまま冷凍室に入ったら凍っちゃうなと思ったが、ま、いっかと。
綿棒には病院で清拭してつけてもらった口紅が移っていた。
祖母の口元からはほとんど口紅が落ちてしまった。
今考えてもあれはなんだったんだろう。
余計なお金を取られるんじゃないか?なんて考えてしまう。
口が開けっぱなしなので、どうにかなるのかと尋ねたら、
納棺師にやってもらうことも可能ですが、また別の料金になりますと。
努めてビジネス調の口調にならないように物腰柔らかく話す姿はプロだなと思った。
最初、のーかんしと聞いたときは?マークだった。
ちょっとして化粧とか聞こえてきて、ああ、あの「送り人」の納棺師かとわかった。
父もやってもらったっけ。
下手だったけれど。別人になってしまったなあのときは。
それではと、安置所を後にし、ではまた明日とお見送りをしてくれた。
母を一人にしておくのが心配だから、叔父が実家に泊まるのなら母も・・・と言ったが、
伯父は相変わらず、通じていないようで、「ああ、また明日ね」と言う。
ああ、これは無理かと思ったら、隣にいた叔父が「いや、おおよそくんが言っているのは」と訂正してくれたが、その時は話の輪に母も入ってきてしまったので、「いや私は大丈夫」と言わせてしまった。
すかさず、伯父は「大丈夫だろ?」と。
はー。
叔父は一旦仙台に帰るの?と聞くと、その答えを遮るかのように、
伯父が「帰るんだろ?」と。
叔父はええ?俺帰るの?という表情。
私はこの伝わらない空気感をそばで味わい、
さらにその外側でひたすら不動で立ち続ける葬儀場スタッフ。
「すみませんね」と言うと、いえいえ。と。
あー、もうどうにもならんわ。
帰ろう。
では、また明日連絡くださいと言い、別れた。
叔父は叔父の車へ。
私は母を乗せ、伯父の車の後を追いかけたのだが、途中で見失い、
道に迷ってしまった。まったくもう。
普通に帰ればよかったと言いながら、住宅街でナビを起動すると23時30分を回っていた。
あらら、もうこんな時間か。
ナビはやはり普段私が使う道を案内してきた。
その道に戻るまでの道は今まで来た道を反対に戻るだけだった。
何やっているんだか。
実家下に着いた時、大丈夫?と聞いても意味のないことを聞いてみた。
母は大丈夫と言って降りていった。
母を降ろし、住み着いている猫をひかないように徐行して、マンションを後にする。
その帰り道。
「なんて、俺は失敗をしたんだ」と自分に毒づいた。
「あー、ショック」、「会っちゃったら悲しいから」なんて母の言葉を聞いて、
うんうん、なんて言って、おめおめ帰ってくるなんて。
悲しむことが今は必要なのに!
悲しい時に悲しめないのは悲しいこと。
悲しい時にみんなで悲しいね、悲しいねということ。
そして、もう一つ、心の中でつぶやく。
「ああ、少しは悲しませることができてよかった」
自宅で我に帰ると、「ああ、自分も死ぬんだよな」って思う。
すごく憂鬱になる。
ああ、なんて忙しいんだ。
疲れたよ。
ばーちゃん!
- 作者: エリザベスキューブラー・ロス,Elisabeth K¨ubler‐Ross,鈴木晶
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
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