あそこにいなくてよかった


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今日もセブンイレブンのヨーグルトとパンを食べた。普通の1日。三連休、ああ、スピリッツがもう出ているのか。そして、春分の日

ツイッター地下鉄サリン事件がトレンド入りしていた。中には親があの電車に乗っていたら、自分はいなかったかも・・・と言うつぶやきを読むと、そうか、あの後生まれて、社会参加するほどの年齢になった人もいるのかと。そう考えると、3.11も2011年に生まれた人達が、2016年から20年後の2026年、未だに閉鎖できていない福島原発を見て、25歳の人たちが何を思うのだろう。

3月20日。地下鉄サリン事件があった日。21年前のあの日、私はコタツでニュースを見ていた。最初は、地下鉄で火事か変な薬品が漏れ出たみたいな感じで、まさか化学兵器によるテロとは思わなかった。

霞ヶ浦駅周辺は私も乗っていたので、当時は乗っていたら・・・と思うと、ぞっとしたし、ああ、乗っていなくてよかった、あそこにいなくてよかったと思った。

こういうことを言うと、「不謹慎」と言われるかもしれない。

でも、多くの人が、いや全ての人が、災害や事件、事故を見て思うのは私じゃなくてよかったと思うのではないだろうか。

当事者じゃないとわからないことがある。いくら共感してもわからないことがある。伝わらないことがある。結局は当事者か第三者かの違いしか存在しない。

頭が痛いと言われてもどんな痛みかわからない。頭が痛い人しか痛みは分からない。痛いということに理解はできるが、痛みまでは感じられない。痛みまで感じられたらそれこそ、医者になるものはいなくなるだろう。

共感はできるが共有まではできない。

べてるの家の「当事者研究」 (シリーズ ケアをひらく)

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 ベテルの家かぁ。懐かしいが現在はどうなっているんだろう。

bethel-net.jp

相変わらず元気なようで、よかった。

統合失調症の名前がまだなかった頃、精神分裂病の〜です(本名)とTVに出た、あの衝撃は今でも忘れない。