力(ちから)


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私はいじめられていたことがある。

正確にはいじめを認識していなかった。

問題行動を起こし、それはいじめが原因だと教師が発言したことにより、そう認識した。

ただの「からかい」だと思っていたが、当時は、今もそうだが、いじめによる自殺が社会問題化したころだったので、クラスメイトたちは衝撃を受けたようだ。

結果、そのいじめは解決した。

いじめる側、いじめられている側が「いじめ」であることを認識した、双方が意識した結果だと思う。

さて、いじめを解決する方法だが、一つは外部からの協力によるもの。

具体的には「体罰」だ。

当時は体罰がまかり通っていたので「力」で解決させた。

教師はいじめを主体的に行っていた生徒に詰問し、取り調べし、同時に正座を数時間させた。

中学生の子供にはこれだけでも堪えたはずだ。

 

もう一つは自己解決によるものだ。

周囲は私をからかっていたことがいじめだと認識した途端、「ごめんね」「ごめんね」と謝罪してきたのが印象的だった。

が、進級してクラス替えになった途端、また似たようなことで「からかい」が始まりそうだった。

ちなみに進級したクラス替えでは前のクラスメイトが一緒になることはほとんどなかった。今思えば恐らく「配慮」がされたのだろうと思う。

その結果、意識していない生徒がクラスメイトになったため、また、「いじめ」が始まりそうになった。

一言、言い始めた時、私はここが「岐路」だと思った。

方法は一つしかなかった。

皆の前で相手の胸倉を掴み、すごんだのだ。

それ以降、一切いじめはなくなった。

ここでも力を利用した。

 

小学生、中学生、高校生の頃は力が全てだ。

喧嘩、取っ組み合いで強いものが生き残る。残酷な集団だと思う。

クラスメイトがからかってきたら容赦なく蹴り飛ばしたこともある。

結果、いじめは起きなかった。起こさせなかった。

 

私個人の見解だが、いじめを解決するには、いじめから脱するには力が必要だ。

 

殴ってもいい。その結果、捕まってもいい。

いじめが「治」まり、自分の命が救われるのなら。

 

もう少し、自分の命を大切にしたほうがいいと考えている。

人のことなんて気にしているから、自分が消耗していく。

 

世の中、多くのもの、ほとんどが「力」で解決する。

感情も物理的な力により全てコントロールすることができるだろう。

愛情など幻想だし、すべての感情は幻想だ。

 

「約束」という曖昧なものは簡単に暴力という力によって反故にされるだろう。

前提に力が伴っていない約束ほど意味のないものはない。

 

信頼することの愚かさ。力があるから信頼できるのだ。

 

信頼関係を気づくためにはどれだけの時間と金と力を要するのか。

 

嫌なものは力で排除する。これが人類、生物が歩んできた基本的な解決方法だ。

それが社会で集団を保護する能力を持ってから、法治が進んだだけで、原則は力だ。

 

 「人間は本能が壊れた動物」である。

 

力は暴力に始まって交渉に至るまで全てにおいて必要なものだ。

  

ものぐさ精神分析 (中公文庫)

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暴力はどこからきたか―人間性の起源を探る (NHKブックス)

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暴力論〈上〉 (岩波文庫)

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